SSブログ

敦賀と水戸の因縁! [敦賀]


私の父方は敦賀、母方は水戸出身である。そして現在、その敦賀と水戸は姉妹都市としての関係を築いている。そんなことからちょっと因縁話しを。
敦賀を舞台にした幕末の有名な史実に、水戸藩士である武田耕雲斎ら天狗党の一党を幕府側がこの敦賀の地で処刑してしまったという悲惨な出来事がある。
1864年、武田耕雲斎が率いる水戸天狗党は、尊王攘夷を唱えて挙兵。朝廷に志を訴えようと京都へ上る途中、敦賀で捕らえられ、にしんを入れておくにしん倉に収容されてしまう。
一党に対する幕府の処刑は徹底して行われた。翌慶応元年(1865年)二月、敦賀の松原刑場において、先ず武田耕雲斎ら二十四人が斬られ、合わせて三百五十余人が斬罪、死罪に処せられた。他に、島流し137名、水戸藩渡しが130名。
ところで、この当時父方の柴田仁兵衛(私の曾祖父)に嫁いだ、横浜はやの父(私の曾曾祖父)は、小浜藩に籍をおき、刀の達人をかわれ無理やりこの首切り役人を命じられたそうだ。毎日五、六人の水戸藩士の首を見事に斬り落としていたという。首切り役人は何人も用意されていたものの、中には刀の下手な役人もおり『もう一太刀お願いします』と中途半端に斬られてしまった水戸藩士が叫ぶと、役人が再度刀を振りかざしやっとのことで前に掘られた穴に首が転がるという光景もあったそうだ。
はや(私の曾祖母)の父がにわかの首切り役人になったこともあり、はや自身はよく松原刑場に見物に出かけたという。この生々しい光景はいつまでも忘れられず、後に孫の諭吉ら(私の父)によくこの話を語っていたという。
その父諭吉は後に水戸出身の父を持つ江尻サチと出会い結婚する。もしかすると、江尻一族の一人がこのはやの父に首を落とされていたかも知れないとすれば、何とも数奇な因縁めいた話になってしまうのだ。そうでなくても、敦賀という小さな町で、敦賀と水戸出身の縁というのもきっと稀だろう。

現在、その松原刑場跡の小高い塚の上には天狗党一党の霊を慰めて、石垣に囲まれた大小の墓石が建っている。これには武田耕雲斎以下、天狗党の三百五十余名の名前も刻まれているものの、風雪に朽ちてかすかに読める程度である。
私の母は昔、その中に血縁の祖先名を見かけたことがあると妹に話していたそうだが、その名の存在について事実かどうか確証はない。
水戸藩士らが収容されたにしん倉は、昭和29年の秋に松原神社境内にその1棟を移築し、現在は水戸烈士記念館となっている。
この水戸烈士の愛国精神がたたえられてきたことと、敦賀では松原神社の祭神として丁寧に祭られてきたこともあって、昭和40年4月30日に敦賀市と水戸市は姉妹都市となった。
『敦賀観光協会』http://www.turuga.org/
※史実については各種文献参考・史跡写真は敦賀観光協会より


nice!(9)  コメント(3)  トラックバック(2) 
共通テーマ:旅行

nice! 9

コメント 3

k-sakamama

すごいというか、なんてコメントしていいのか、わかりません。
映画になりそうですね。
曾曾祖父の方は仕事とはいえ辛かったでしょうね。
はやさまが見物の行かれてたのも時代の背景がそうさせていたのでしょうね。自分でも、何が言いたいのか・・・・・。ごめんなさい。
歴史のなかをチョット覗いた感覚に・・・・。
by k-sakamama (2007-09-28 21:01) 

ちょわるさん、ご訪問、ありがとうございます。
こういう過去があると、末裔まで恨むもので・・・幕末の恨みを今も大事に持っている地方もありますよね。
それなのに、姉妹都市とは。
ちょいわるさんの因縁めいたルーツにも驚きです。
by (2007-10-01 07:55) 

あさころ

この時代に生きてた日本人は
すごいな。

歴史はあるのに
大戦でリセットされてしまったようです。

学校の勉強だけでは
何故、こんなことが起きたのか
子供達は理解できないでしょうね。
ここから戦争へ突っ走ったなんて。
by あさころ (2007-10-31 19:29) 

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

Facebook コメント

トラックバック 2

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。